KENCHIKU新聞

オマージュとしての建築(3)

槇 文彦

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れまで2回の小文の中で、様々な人、或いは人々との出会いとそれにまつわる建築の話をしてきた。建築家であれば、当然多くの建築との出会いも経験する。建築との出会いが呼び起こす回想、また昔出会った建築或いは言葉からの残像がその後自分のつくる建築の手掛かりとなる、所謂オマージュとしての建築作品、これらについて次の2回に亘って語ってみたい。

 2012年の秋、東京の新聞に2020年の東京オリンピックの為の新しい国立競技場の国際コンペ最優秀案が発表された。現国立競技場の狭い敷地の上を白い巨大な烏賊がのた打ち回ろうとしていた。その時、今から半世紀以上も前、正確には1959年の初夏、アテネを訪れた時に遭遇したパナティナイコの屋外競技場とその前面の広場を想い出した。それは衝撃的な出会いでもあった。広場の後方の丘をくり抜いた形の白亜の競技場とその輪郭を形づくる丘のエッジは緑の樹木に彩られ、その後方に青い空が広がっていた。白亜の観客席は、そこで競技が行われる時には観客の衣裳の豊かな彩りによって、また別な光景が展開することは想像に難くなかった。
そして2004年に再びアテネでオリンピックが行われた時、半世紀前、私が撮ったこの写真と寸分変わらない姿で競技場が日本のテレビのスクリーンに現れたのである。恐らく世界で五指の一つに数えられる都市デザインの傑作であると私は考えている。
施設の開放性はその建築、特に象徴的なものであればあるほど、都市を豊かにするものなのだ。聞くところによれば新国立競技場はオリンピック後、1年の内60日間しか使われないという。残りの300日は巨大な沈黙の土木的スケールを持った架構物に過ぎないのだ。

 私が幼少の頃自宅の筋向いに当時若い建築家で両親とも親しかった村田政眞氏が住んで居られた。或る日、当時村田さんが働いていた土浦亀城さんの自宅が近くの目黒の長者丸に完成したので、一緒に見に行かないかという誘いを受けた。私の家も白かったが、土浦邸は今考えてみると私にとって最初のモダニズムの住居との出会いであった。子供心にも最も印象が強かったのは、吹抜けのある所謂メザニンの空間構成であった。そしてそれを繋げる細いメタルの階段の手摺、それはよく両親が連れて行ってくれた、横浜に寄港する外国船のデッキ空間と似たものがあった。
その数年後、私は谷口吉郎の設計による天現寺の幼稚舎で小学生の数年を過ごすことになる。そこではモダニズムの建築が与える豊かな空間を存分に享受することが出来た。そして再び工作室でメザニン空間との出会いがあった。メザニンの上部には工作室の先生のアトリエがあり、下は様々な工作の作業の出来る場所であった。そして30年後、私は日本で設計事務所を始めるが、その初期の作品にヒルサイドテラスの第一期計画があった。この敷地は道路沿いに緩やかな上り勾配をもっていた。私は躊躇なく、その上り勾配を利用して、コーナーのエントランスロビーの背後にメザニン空間をつくりあげた。建築家は誰でもその初期の作品において、それまで彼が抱いていた様々なアイディア或いは欲望の一端を実現しようとする傾向があるという。私もその例外ではなかった。今も屡この場所を訪れる度に、私が幼少の頃、まだ建築家になろうという想像すら持たなかった頃の土浦邸や幼稚舎のメザニン空間を懐かしく想い出すのだ。

イザール・ビューロパーク(IBP)
 中学生の頃、地理の時間に、先生からドイツの南部には黒林(ブラックフォレスト)といわれる森林があると教えられた。我々は林は緑だと思っていたのでその林が緑でなく黒色であるということが妙に記憶に残っていたのである。その黒林との最初の出会いは、1990年頃、ドイツのオフィスパークの設計の国際コンペに当選して、ミュンヘンの郊外を訪れる機会があった時である。勿論近くによれば緑林であるが、遠方から見れば確かに、黒林なのだ。
たまたま我々のプロジェクトの敷地は黒林に向けて開いていたので、それをどのように取り入れるかはスケッチを描いている時から私の念頭を離れることはなかった。

バーゼルのノバルティスプロジェクト
 私がまだ建築学科の大学生の頃、コルブジェの作品集と共にバイブルのように飽くことなく見ていた外国本に、スイスで英独仏の3か国語で出版された当時第一線で活躍していた建築家達の作品集があった。その中には1937年にパリの万博日本館を設計した坂倉準三の作品も掲載されていた。そしてアルフレッド・ロートのチューリッヒの集合住宅も。私が長くこの建物を記憶している一つの理由は、後年TEAM Ⅹの会議を契機に親しくなったオランダの建築家アルドー・ファン・アイクから、ここは当時著名な建築史家であったジークフリード・ギーディオン夫妻の住み家でもあったと教えて貰ったからでもある。いかにも初期モダニズムが謳歌した生活の自由が、大らかなコーナーバルコニーを通して簡潔に表現されていた。
私の最初のスイスの作品は2009年に完成したバーゼルのノバルティス製薬会社の研究所であった。完成後その端部の外観の写真を見ていた時、ふとロートの集合住宅を想い出したのだ。勿論ノバルティスの仕事をしている間は、ロートの作品を思い起こすことはなかった。しかしスイスの卓越した施工技術、そしてこのプロジェクトに参加して呉れたスイスの建築家、コンサルタントの仕事ぶりは期間中私に強い印象を与えてくれたのである。恐らくこの二つの作品には、たとえその間に半世紀に近い時の流れがあったとしても、スイスらしいモダニズムの建築のスピリットが存在し続けてきた証しでもあるといってよいのではないか。

ワールドトレードセンター
 ワールドトレードセンターが完成した頃、私はアムトラックでフィラデルフィアから紐育に向って旅をしていた。ここに掲載する夕陽に映えるWTCの写真はニュージャージー側の車中から撮った貴重な1枚である。当時まだWTCの西側にフィナンシャルセンターの一群が建っていなかったので、2本の塔は直接その赤いシルエットをハドソン河に写し出していた。そしてこの2棟の塔は30年に満たない短い生涯を終えるのである。
40年後、4WTCの設計を依頼された私は、出来得ればオリジナルのWTCと同じように単純にして明快な姿をもった、しかしメタルでなく硝子による、彫刻的な建築を目指した。その結果、周知のように4WTCは天候、距離、時間帯等によって様々な表情を見せてくれる。そして近くにたまたま居合わせた私の友人の一人が偶然、あの建物は視界から消え失せる事もあることを教えてくれた。ここに掲載した2枚の写真はその情景を写し出している。私は決してそのことを意図してこの建物を設計した訳ではない。しかし我々の眼前から忽然と消え失せたWTCに対し4WTCは偶然がつくり出したオマージュではないかと最近考えるようになった。

まき ふみひこ

1928年生まれ。1952年、東京大学工学部建築学科卒業。1953年、クランブルックアカデミーオブアート修士課程修了。1954年、ハーバード大学大学院建築修士課程修了。1965年、槇総合計画事務所設立。