KENCHIKU新聞

一建築家として(1)

槇 文彦

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にとってモダニズムの建築との出会いは昭和の初期の東京という事を考えれば皆無ではなかった。しかしだからといって数多くあった訳ではない。

 私が子供心にも強い印象を受けた最初のモダニズムの建築との出会いは、偶然1935年丁度7才の時、親に連れられて目黒の土浦亀城自邸を訪れた時であった。玄関から見上げる半階上部の空間、そして半階下に広がる高い天井をもった空間、所謂今でいう中二階のある空間であった。そしてもう一つ強い印象を受けたのは、上下を結ぶ階段のメタルの手摺であった。恐らくある種の親しみをそれらから感じたのは、よく横浜港に大きな外国船が来ると親が連れて行ってくれた船の空間に似たものがあったからに違いない。

 そして2年後、当時東洋一といわれた慶應幼稚舎の新校舎で4年半を過ごすことになる。白亜のモダニズムの校舎の工作室で再び中二階の空間に遭遇する。クローバー型の机がある理科教室、2階と3階に張出されたテラスの床にはガラスブロックがはめ込まれていた。大学卒業後、東京工大の若い助教授、谷口吉郎、33才の作品である。彼の言によれば当時慶應義塾の担当理事槇智雄は‘塾の建築に魂を入れて欲しい’と云ったそうである。何故若い谷口氏にこのプロジェクトが与えられたのか。私の想像では槇は谷口が既にそれまでにつくってきた谷口の自邸(1932)、或いは槇の親戚になる佐々木邸(1933)を見ていたからなのかもしれない。そしてそこには彼ならばという確信があったからであろう。その後谷口は慶應義塾に数々の作品を残していく。よきパトロネージの時代であった。

 私も谷口ほど劇的ではないが、一つの経験がある。1958年、当時米国セントルイスのワシントン大学に勤めていた私は、スタディオ以外大学のキャンパスプランニングオフィスにもパートタイムで勤務していた。或る日、オフィスのディレクターが、実はある資産家の未亡人が図書館、ホール、ギャラリー等の複合施設を大学に寄付してもよいといっている。彼女に見せる案を一つ作ってくれないかという依頼があった。私は喜んで学生達を使って一案を作り彼女に見せたところ、大変気に入って、即座に‘もしもこの通りのデザインが実現するならば資金を寄付しよう’という申し出があった。彼女の名前をとったスタインバーグ・ホールは私の米国での処女作となった。当時全く無名で図書館もホールの設計の経験もない私に仕事をくれたのである。丁度谷口吉郎が学校設計の経験もなくても設計の依頼を受けたのとよく似た話である。そこには人間同士のある信頼関係が無意識のうちに築かれていたからであろう。社会がまだどこかのんびりしていた時代でもあった。私はこれを良き時代のパトロネージといいたい。考えてみると、第二次世界大戦前のヨーロッパで世紀の傑作といわれたコルブジェのサヴォイ邸、ミースのトューゲンハット邸、或いはリートフェルトのシュレーダー邸もすべて或る進取的な思想をもった新興のブルジョアと才能に恵まれた若い建築家の出会いがつくり出した作品なのである。第二次世界大戦後そうした話は最早聞かれなくなった。米国を除いては。そしてパトロネージの所産として最も有名な話は、ミースファンデローエが設計したニューヨーク、パークアヴェニューのシーグラムハウスであろう。施主ブロンフマンの長女で建築を学んだフィリス・ランバートは大のミースファンであり、父を説得して彼に設計を依頼した。彼女は現在カナダのモントリオールにCanadian Center for Architecture(CCA)を設立し、様々なかたちで建築家達のサポートを行っている。

 勿論現在も依頼(コミッション)というかたちで世界中のいたる所で建築の設計が行われている。しかし公共の施設ともなると最早依頼者、即ち自治体の代表である知事や市長は、自分の意思一存で建築家を選定し得ることは極めて困難になってきている。多くはプロポーザルという形で資格、経験のある建築家達が案を提出し、審査員によって、一人が選定されるという仕組みである。しかし嘗て丹下健三の名作、香川県庁舎は時の県知事金子の丹下に対する絶大な信頼の結果生まれたのである。

 私もこの半世紀、依頼、コンペ等様々な形で設計を行ってきた。確かにコンペに勝つということはそれなりに嬉しいことであるが、そこには貴方にやって欲しいという信頼感は必ずしも依頼者と建築家の間に当初から存在するとは限らない。依頼者にとってもコンペという仕組みが彼、或いは彼等におしつけられた建築家という気持ちがどこかで存在しているのかもしれない。

 人と人との信頼が、よい建築をつくり出すことに如何に重要かということを私も経験してきた。しかしそうした信頼は出会いの後築かれていくことも多い。嘗て近代までの建築の依頼者は権力、富力をもった王侯達で、依頼された建築家達は彼等の欲望を満足させる立派なものをつくればよかった。しかし現在はそうではない。当然依頼者の希望を満足させねばならないが、そこに至るまで法規、コスト等の多くのハードルの存在を説明また克服していかねばならないし、しかし同時に建築家自身が望むかたちにそれらを収斂させていかなければならない。建築家には依頼者を教育していく巧みな技が要求されるのである。その技もまた人によって千変万化であろう。建築家は依頼者に対して高圧的であってはならないし、といって、時に相手の無理な要求を全部きいていては設計はまとまらない。従って教育といっても、或いは信頼関係といっても、その結果は完成した建物がすべてを語ることになる。最近次のような経験をもった。2006年ニューヨークグラウンド・ゼロの高層建築を担当したフリーダム・タワーを除く3人の建築家、私、ノーマン・フォスター、リチャード・ロジャースの作品が初めてパブリックにオープンにされた機会に、ニューヨークでその3人の建築家と直接の施主であったディベロッパーのラリー・シルバースティンの4人が司会者と共にテレビの前で討論会があった。私は3人の建築家の中で最後の一人であったが、司会者に今後施主と上手くやっていけるかと質問された時、次のように答えた。「私は施主のシルバースティン氏をよくしらないが、今後彼の人柄をよく研究し、彼の気持ちをよく汲みながら、しかし最後は自分のつくりたいものをつくりたい」といって聴衆の笑いを誘った。その直後、シルバースティン夫人が私のところにやって来て、半分冗談で「私もいいことを教えて貰った」といったのを今でもよく覚えている。周知のように4WTCは昨年11月完成し、彼と彼の会社SPIの人達も大変結果に満足している。

 完成した建物は建築家の手を離れる。建築家はある意味においては初めて生まれた子供にそこで遭遇しながら、しかし直ちに生まれた子供を他者、そして社会に委ねることになる。私は次の稿で建築家社会に果してグループ活動、換言すればマフィアは存在してきたのかということについて私の出会いを通じて語ってみたい。             

まき ふみひこ

1928年生まれ。1952年、東京大学工学部建築学科卒業。1953年、クランブルックアカデミーオブアート修士課程修了。1954年、ハーバード大学大学院建築修士課程修了。1965年、槇総合計画事務所設立。