KENCHIKU新聞

建築家の出会い(2)

槇 文彦

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、振返ってみると1958年からの数年間は私の人生にとっても、最も濃密な時代であったかもしれない。私にとってまだ30代が始まった中で実に多くの人々との出会いがあったからである。とりわけ今でもそうであるが日本と比較して米国、ヨーロッパの人々は年令差、或いは同じ大学卒業時の差等は全く気にしない文化に育ってきた。日本にある先輩、後輩にあたる適当な言葉は存在しないのだ。

 この時期、私が教鞭をとったハーバード大学、ワシントン大学の教員、生徒達は既に多国籍者であり、出会った人達も私と同年配の生徒もいれば、年上の教員、友人も当然多かった。

 例えば後述するTEAM Ⅹのアルドファン アイクというオランダの建築家とはワシントン大学、そしてハーバード大学でも同じ頃教えた事で親しくなった間柄であったし、1964年にワシントン大学から出版された‘集合体の研究’(Investigations in Collective Form)はまだ青いゲラ刷りを送ったら、早速グロピウス、ケヴィンリンチ、ヤコブ バケマ等から丁寧な返事を貰うというそうした時代でもあったのだ。

 先稿で述べた「漂うモダニズム」でも指摘したように我々建築家は誰もが一艘のモダニズムという船に乗り、しかし行先きのわからない航海を続けていた時代でもあったのだ。

 当然一艘の船の中で気の合ったものも、或いは意見の異なるものも生まれる。そして気の合ったものの間では、マニフェストを中心に幾つかの同志的結合が生まれたのが1950年代から60年代の特色であったともいえるであろう。

 私自身が経験したメタボリズムの運動もその一つである。1958年の秋、グラハム基金のフェローに選ばれた私は帰国し、次の2年間西方への旅の準備中であった。その時丹下研の先輩であった浅田孝から彼が建築評論家川添登等と企画していたメタボリズムの運動に参加しないかという誘いを受けた。そろそろ米国から日本に拠点を移そうと考えていた私にとって、極めて魅力的なオファーであった。周知のように1960年に日本の建築界、デザイン界が戦後初めて世界中から著名な建築家、デザイナー達を招いて東京で開催された世界デザイン会議は、我々建築家達、菊竹清訓、黒川紀章、大髙正人等と共に、‘メタボリズム1960年’の白い小冊子(日、英語)を発刊し、その存在を世界に開示し得る格好の機会を与えてくれた。丁度行商人のように会議中、多く海外からの建築家達に配布したその小冊子は限定500部、定価は500円だった。ちなみにこの原本は現在建築界では希少本として取扱われ、価格はうなぎ上りだという。我々がお互いにサインし合った貴重な一冊を今も私は大事に保存している。

 その会議で出会った英国からよばれていた建築家スミッソン夫妻にその夏計画していた2度目の欧州への旅の話をしたら、是非彼等がその頃南仏のバニョール・ス・セズという町で行うTEAM Ⅹの会議に参加しないかと勧められた。それがその会議に出席した彼等との最初の出会いでもあった。周知のように当時ヨーロッパの若手の建築家達が、あまりに教条的なモダニズムを推進してきたCIAMというヨーロッパ地域の建築家集団に対し、反旗を翻したのが彼等であり、例えばそれぞれの地域の特性とか、モビリティ等を重視した考えを推し進めようとしていた。

 英国からはピーター・アリソンスミスソン、オランダからはアルドファン アイクとヤコブ バケマ、イタリアからジャンカルロディカルロ、フランスからシャド・ウッヅとギリシャ人のジョージ・キャンディリス、ポーランドからオスカー・ハンセンそしてスウェーデンのラルフ・アースキン等であった。先に述べたようにアルドファン アイクは再びハーバード大学で再会する。夜一緒に見に行った映画「アラビアのロレンス」の中で出てくる陽炎のように空と砂漠が一体となるシーン、それは彼がサハラ砂漠横断で経験した幻想的な視覚世界と全く同じであったと語ってくれたのが今でも忘れられない。また、シカゴのイリノイ工科大学にミースのクラウンホールが出来た時、見学を共にした。丁度偶然カメラを持ったジーグフリード・ギーディオンに遭遇し、彼が「また新しい傑作が生まれた」と呟いていたのも忘れられない。アルドはしかし前面の階段と本体の間に出来た三角の空間が気に入らなかった。彼は犬の恰好をしてその間に入り込み、その写真を撮れと私にいいかけた。激しい気性の持主だった。

 ピーター・スミスソンにも折に触れて出会いがあった。最後に会ったのは2000年ロンドンのV & Aで私の個展が開催されていた時にそのオープニングに来てくれた。彼の没後、カタール近代美術館の指名コンペの審査員に招かれた時、参加者の一人リチャードロジャースの事務所の担当がスミスソンの息子であった。彼はバニュール・ス・セズの会議の時はまだ子供で、40年後の出会いであった。彼は勿論その頃の事は覚えていなかった。

 同じ頃、そして今もメタボリズムと同様に関心の多いアーキグラムのメンバーの中で時に国際会議等で出会うピーター・クックは唯一活躍しているメンバーの一人であろう。一昨年だっただろうか。月曜に事務所に来たら事務所のメンバーの一人が昨日、つまり日曜に、突然前触れもなくクックさんがふらっと訪ねてきて、雑談していったという。その後彼から何も音沙汰もない。建築家には変わった人が多い。

 しかしこのように様々なところで出会い、印象の深い一刻を過ごすことのできた人達も今は殆どいない。あらためて寂寥の感が否めない。

 今振り返ってみると最も同志的な結合がメンバーの間で強かったのが、TEAM Ⅹ、同じ英国人で構成されたアーキグラムは葉巻とコニャックで議論を重ねてきたジェントルマンクラブのメンバーに似ているとどこかで私がいってきたことがある。それではメタボリズムは同志としてどう喩えたらいいのだろうか。私にとって世界デザイン会議での我々の高揚した気分を想い出すと、それは甲子園前日の高校野球チームだと思う。

 菊竹清訓の偲ぶ会の席上、私は次のように語った。ピッチャーは当然菊竹清訓、捕手は大髙正人、派手な挙措に事欠かない黒川紀章はショートストップ、私は少し皆から離れたセンター、そして丹下健三と磯崎新は仲良くダックアウトから我々を観戦して居たのではないかと。   

まき ふみひこ

1928年生まれ。1952年、東京大学工学部建築学科卒業。1953年、クランブルックアカデミーオブアート修士課程修了。1954年、ハーバード大学大学院建築修士課程修了。1965年、槇総合計画事務所設立。