KENCHIKU世界/地域に根ざした建築家

山﨑健太郎/山﨑健太郎デザインワークショップ|千葉県八千代市|建築は全体の始まりでしかない(1/2)

文(明記以外):柴田直美 写真・図版(明記以外):山﨑健太郎デザインワークショップ

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目指す活動のイメージが重なる建築

山﨑健太郎さん(山﨑健太郎デザインワークショップ)は、千葉県に完成した高齢者施設『52間の縁側』で、建築では14年ぶりとなるグッドデザイン賞大賞、2023年度JIA日本建築大賞、2024年日本建築学会賞(作品)と大きな受賞が続いている。数年来、手がけていた福祉施設など、そして『52間の縁側』の設計に至る経緯に興味を持って、取材を申し込んだ。

『52間の縁側』がある千葉県八千代市の米本地区は、昭和40年代に106棟(管理戸数約3,000戸)の大規模団地が建設され、住民の高齢化が進んだ現在は、子育て世帯の共働き、ひとり親からなる子どもの孤食などの問題も抱えている。この地域で「よなもんハウス(子どもの居場所)」と「NEIGHBOR FOOD PLACE(多世代交流スペース)」の運営をしていたNPO法人わっかと、介護サービス事業者である石井英寿さん(オールフォアワン代表)、そして山﨑さんが出会い、数年に及ぶプロジェクトが始まった。

『52間の縁側』は、老人デイケアサービスセンターに、共生カフェ、寺子屋、子ども食堂、自主保育などの複合施設が整備され、地域にとっての「中心」として考えられた。利用者や地域住民は、施設を通して認知症などを抱える高齢者や子どもとの接点を持ち、世代を超えた共助のネットワークを構築することを目的としている。

 

 

約80mの長い縁側は、事業者である石井さんの介護に対する姿勢「横に並んで座る」と合致する。©️黒住直臣約80mの長い縁側は、事業者である石井さんの介護に対する姿勢「横に並んで座る」と合致する。©️黒住直臣

 

 

特徴である「縁側」は、来訪者と利用者の社交の場として機能する。石井さんは、元気な人たちとのコミュニケーションは向かい合うのが良いが、認知症の人との関わり方は「横につく介護」だと考えている。それが形となったのが「縁側」だった。昔から「縁側」が担ってきた役割(機能)と石井さんの哲学が重なってイメージが膨らんでいった。横並びに座りながら、緩やかなコミュニケーションが生まれる場所。周りにいる人たちにとっても自分の場所であるように使え、これから現れる人に対して寄り付きしろが大きい場所。それさえ決まれば、そのあとにどんな人が参画しても大丈夫、という山﨑さん。そうして、「縁側」を中心にプロジェクトが進んだ。

ここでは、隔離されがちな高齢者が日常や地域との繋がりを保ちながら、暮らすことを目指している。それは山﨑さんがこれまで手がけてきた、日常や地域とのつながりを保つ『新富士のホスピス』や『はくすい保育園』、『視覚障害者施設』などで得た知見が活かされている。

 

自分のものとして感じられる建築とは

まず山﨑さんが話してくれたのは、「建築」とは何なのかを探し続けていることについて。『52間の縁側』を進めていた数年の間、建築のことを理解していったと思うという山﨑さん。設計そのものよりも、そこまでのプロセスでだれかのアイディアが入ったりすることでできていくにも関わらず、建築を設計者の作品と呼ぶことに抵抗を感じるという。「竣工直後、建築雑誌に作品の説明として、設計者がやったことを書いてほしいと言われますが、これから使われてみないとまだわからないです。」

そして、なぜ建築が好きなのかを考えていたという。例えば、人々から愛され続けている建築がある。目黒区総合庁舎(旧千代田生命保険相互会社本社ビル)(1966年、村野藤吾設計)は、働いている区役所職員、使っている区民、関わっている人たちが誇りに感じて、大事にしている状況に、喜びを感じるという。「昔はみんなで屋根を葺き替えたり、人が関わって、ものができるのは喜びだったのですが、現代の建築からは少なくなってしまっていると思います。建築は、完成が待ち遠しいものであってほしいと思いますね。設計者ができることは全体の一部(始まり)でしかないと思います。『52間の縁側』は『始まり』を見ている感じがします。そして、建築として完成されていないから、そこに願いを込められます。『52間の縁側』を彼らの象徴にする、自分のものと感じられるように。」

なぜこんなに縁側のプロジェクトに入れ込んでしまったのか、介護のプロジェクトに熱心に関わったのか、と考える背景には、建築ってなんだろう、ということを知りたいという気持ちがあったと振り返る山﨑さん。焼け落ちたノートルダム大聖堂の復興にかける人々の熱意に感動するのは、建築は暮らしの一部であってほしい、ということだと自己分析する。2020年、宮城県立美術館(1981年、前川國男設計)が解体を免れたのは、市民団体による保存運動が実を結んだ結果であった。それを知った山﨑さんは、建築は「(この建物が)暮らしにあって欲しい」という心の拠り所になり得るのではないかと思ったという。ニューヨークのセントラル・パークの例も挙げ、セントラル・パークが荒廃した1960〜1970年代に、市民が自ら整備し、今も市民団体がセントラル・パーク管理委員会として運営している。「暮らしている人たちのパワー、そういう共同体について思うようになりました。介護とか福祉とかは別で、自分ごととして関わる、というのが大事であり、誇れる、自慢できる象徴に建築がなれるのでは、と思いました。」

 

 

『52間の縁側』の建設中に行った、近隣住民による庭づくりのワークショップの様子。『52間の縁側』の建設中に行った、近隣住民による庭づくりのワークショップの様子。

 

 

建築が「待つ」こと

「石井さんが考える介護は、『してあげる』のではなく、『待つ』ことが鍵なんです。『目指す将来に向けて、人が少しずつ使いこなす』のを『待つ』ということが建築にもできるのではないかと思いました」と山﨑さん。『52間の縁側』にカフェをつくろうという話がでた際に、そのこと自体は良いことだが、計画段階で考えれば、人的リソースや運営能力を考慮してカフェはやらないという選択が正しいとも言えた。ところが、しばらくしたらカフェをやりたいという方が現れたという。将来起こりうる理想的な変化を引き受けられる建築が良い、建築を自由に(建築が全部を引き受けないで、人が介在することで自由に)できるのではないかと気がついた。福祉施設の設計時に、建築としてのおもしろさを求めるのではなく、日常から切り離されない場所をつくることのほうがよほど大事であるという信念が垣間みられる。その思いは石井さんが介護事業で最も大事にしてきたこととぴったり寄り添う。

よくある計画的な設計手法に比べると、『52間の縁側』は場当たり的だという。その点において石井さんと山﨑さんは気が合うが、別の施主と建築家の組み合わせと組み替えてうまくいくとは思えない。そういった人どうしの化学反応が場づくりに直結しているという実感とともに、これを仕組みとして他の例に当てはめるのも難しい、という。これは取材前に聞きたかったことのひとつであった。施主と建築家の幸福な組み合わせだけが鍵なのか、それともそれが別の場所で再現できる仕組みなのか。山﨑さんの答えは「再現可能性には限界があって、マスに向けて制度化して救うのは難しいのでは?と思います。現代は、大きな社会の課題(極度の貧困など)は解決され、資本主義の中でマネタイズできないような小さい問題がたくさん残っているはずなのです。」と小さな個別解を導いていくことであった。

 

定量化された「人」でなく、血が通った「人」がハマる空間

「視覚障害者の施設を設計したとき、目が見える僕がそこで何ができるかと考えました。ホスピスの仕事では、この提案は良くないというのはわかるけど、じゃあ、どうしたらいいのか。保育園を設計した時も、当事者がいない会議をしながら、刺激を与えたり、慰められる他の芸術と比べて、空間というのは無力なのか、と思いました。そんな時、近畿大学の鈴⽊毅教授が提唱する『居⽅』(⼈間がある場所に居る様⼦や⼈の居る⾵景を扱う枠組み)について知りました。」

その考え方を知って、空間でどう過ごすか、それは人それぞれに委ねられ、目が見えなくても元気でなくても、ひとりでいたい時にも、それでもだれかに見守られている、そういう空間を設計できると思ったそう。しかし、例えばホスピスにくる家族が悲しみにくれても良い場所が現代にはない。近代的な病院は、言ってしまえば監獄と同じプランでつくられた監視的な空間であり、ご遺体は裏口からそっと出すようになっている。かつては日本家屋に納戸があって、そこは出産や、亡くなった家族を安置する場でもあったので、生き死にが身近なものだったが、近代以降はそれを遠ざけてしまった。どういう場所であれば、死ぬことが当たり前になるかを考えていない、その概念は変えていくべきだと思った山﨑さんは、人と空間をセットで考える「居方」という考え方を得て、空間を構成することができると実感を持つことができたという。定量化されていない個性を持った「人」として扱われることで、「人間らしさ」を保ったまま過ごせるのではないか、という気づきは、NPO法人わっかの人たちが考える、社会のあるべき姿と重なる。

「ホスピスが完成した何年か後、そこで働く医師たちから患者さんのふるまいが前向きに変わったことについて教えてくれて、それで『縁側』にとりかかることができました。人の向きを考えると、その空間をどうしたらいいか、わかってきました。設計者が空間とはこうであると全てをコントロールするのではなく、設計者が形にするのはごく一部でしかない。設計者がもっと親身になって考えたら、もうすこしできることがあると思います。それが『縁側』が始まってから、思うことです。」

とはいえ、まだ完成していない空間にいる「人」をどうやって想定するのだろうか。

 

 

『新富士のホスピス』は、既存樹木を避けるように配置され、廊下は雑木林を散策するような「居場所」として計画されている。©️黒住直臣『新富士のホスピス』は、既存樹木を避けるように配置され、廊下は雑木林を散策するような「居場所」として計画されている。©️黒住直臣

 

 

利用者(当事者)でないことを補う想像力のトレーニング

「最初は、のっぺらぼうな『人』がいることを想定して、いろいろ設計を進めていくと、ふと『人』の顔が見えてきた段階で、この空間は良いのではと判断できます。自分の母のことを思うこともありますし、背中をあずけたら安心する、というのは大体の人が同じように感じるでしょうし、そういった意味では人間はそんなに違わないと思えてきます。」

石井さんが運営する宅老所(デイサービス)『いしいさん家』には、ずっと玄関に座っているおばあさんがいて、そうやっておじいさんを出迎えていたという習慣がそうさせているそうだ。そういうものまでは取り込むことはできないが、文化や風土などを自身に取り込んで、それを設計に出していくことが設計者の仕事だという。

「個別の人に対してではなく、ただし計画学で定量化された人ではなく、血が通った人として、もう少し普遍的なものにたどり着くことを設計者が提案できると思います。今は見えていなくても、その建築を介して何か蘇るものがあるかもしれない。建築は記憶とつながるメディアであると思います。」

名建築の実測をライフワークにしていて、居心地が良いなと思う空間をスケッチすると、ある寸法が得られるそうだ。「住宅のスケールでつくられている公共建築には人の気配を感じますし、そういった寸法を身体化していくことで、自分が当事者(利用者)でなくとも設計していけるようになると思います。」それは千本ノックを受けているうちに打球の音を聞いたら身体が動くといったようなスポーツ選手のような身体性なのかもしれない。

 

建築を真ん中にして考える。そこにいる誰かのための建築。

山﨑さんに建築家の社会的役割について伺いたいと考えていた。多くの建築は、石井さんと山﨑さんといったような出会いに支えられているわけではないだろうし、(自身が関わるプロジェクトを丁寧に遂行すること以外に)社会全体が良くなる、暮らしやすい生活のために建築家ができることについて、どう考えているかを聞きたいと思っていた。

建築家の職能というのは、概念を空間化することであり、それによって、人の幸せを支える一助となるという考え。それがあくまで一助でしかないけれども、そこを全面的に信じて進むことができる実直さ。そこが石井さんと気が合う所以だろうと思う。けっして建築は万能薬でもないし、建築家は万能の神でもない。それでもやれることがあるし、常に介在する空間は人の考え方に大きな影響を与えている事実を真正面から受け止めて、謙虚である、その姿勢に強く共感した。

山﨑さんはこういったことを言語化して、整理して話していこうとしていると笑っていたが、背中を見ている若い建築家は必ずいて、勇気付けられていると信じたい。どんな場所にいても定量化された正解ではなく、暮らす人を中心としたハードもソフトも含めた環境をつくることが建築家の生業であるという、特に暮らしに深くかかわる部分の設計については、そういう建築家に担ってほしいと強く思う。

 

 
 
 

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