加藤さんが大学院生だった時、東日本大震災が起きた。私は、震災後に立ち上げられた建築家のネットワーク〈東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク〉(略称:アーキエイド)の活動に関わっており、アーキエイドが展示(「ヨコハマトリエンナーレ2011」特別連携プログラム「新・港村~小さな未来都市」)を横浜で行うために関東圏の大学生に協力を仰ぎ、千葉大学大学院生だった加藤さんがアーキエイド関東学生代表として、一切の運営を担ってくれた。テキパキと仕切っていたことと、故郷の山形に戻ってまちづくりに関わりたいという話をしていたことを印象的に記憶していた。その後の活躍は時折耳にしていたが、東北芸術工科大学(山形)で教鞭を取り始めたと知り、現在、街や建築についてどのように考えているのか、話を聞きたいと思って、取材を申し込んだ。
加藤さんは人口3.5万人程度の山形県新庄市で生まれ育った。
「駅前はいわゆるシャッター商店街で、多様な拠点があるわけでもなかったので、自宅や学校によって居心地が左右されます。それ以外の選択肢をつくりたいなと思ってたんですよね」
居場所づくりのようなことに興味があったという加藤さんは、高校の進路選択の際に、教育現場から変えていく、または建築設計から場をつくる、という意味で、教育か建築かで迷って、最終的に芝浦工業大学建築学科に進学する。
その後、街など建築の周りのことについても学びたいと思い、千葉大学大学院工学研究科建築・都市科学専攻へ進学した加藤さんは、建築領域と都市領域に分断があることに違和感をもった。加藤さんは、それを繋ぐような活動として、千葉大にある「かたらいの森」という森で廃材を使った家具をつくって、コーヒーを振る舞うことを始めた。最初は個人の小さな活動だったが、他学科の学生や地域の住民も参加してくれるようになり、街への広がりを感じたという。
「おそらく、建築をつくる行為が街に与える影響を実感したかったんだと思います」
そこで、家具の配置で居方が変わることや、場を成り立たせるためにはお金や組織のデザインが必要といった、その後の活動につながる原点ともいえる、人の行為や運営について身をもって感じることとなった。その当時、馬場正尊さんが率いるOpen Aでアルバイトもしていた。
「馬場さんが『都市をリノベーション/The City Conversion』(NTT出版、2011年)を出版した頃で、小さい行為が都市を変えていく、というような点に興味があったように思います」
加藤さんが代表を務める株式会社銭湯ぐらしが運営する銭湯つきシェアスペース「小杉湯となり」。
場のつくり方と人の行為が街に広がっていくという点に興味が湧いてきた加藤さんは、もう少し大きな領域でできることとして、公共発注に興味を持った。
「例えば公共施設を建てる時、いきなり設計がはじまるのではなく、都市のビジョンと建築の実践に落とし込む必要があります。そこではデザインの前提条件をデザインすることが重要になってくると考えたんです。それで、プレ・デザインという領域を研究していた東北大学小野田研究室で研究を深めることにしました」
そして東日本大震災が起きた。震災と津波によって街が破壊された被災地で発注は激増した。当時を振り返って「しっかり現場に行って、自分がやれることをやらねば」と思ったという。東北大学に進学するまでの期間、冒頭に書いたようにアーキエイド関東学生代表を務め、新・港村の展示を仕切る。
東北大学に進学後、すぐに宮城県七ヶ浜町の役所に出向して、災害公営住宅の計画に携わった。阪神・淡路大震災の研究結果を参考にして、リビングアクセス型住戸の計画やそれらの実施に向けて、住民や行政職員、建築家とのワークショップなどを次々に進めていった。
「あっという間に3年が経ち、これからどうしようと思っていた頃、かつてアルバイトをしていたOpen Aが公共R不動産*を立ち上げるタイミングで、これまでの学びを社会に実装したいという思いで、Open Aに就職しました」
学生として計画に携わり、建築の実装について研究したが、やはり設計のスキルを身につけてるための就職だったと振り返る。
「建築をつくるプロセス全体に興味があるんです。それは千葉大の森で家具をつくったときも、アーキエイドで展示会場をつくったときもそうです。アーキエイドでは自分一人で設計するんじゃなくて、メンバーだった冨永美保さん(現:tomito architecture代表)や武井良祐さん(現:OSTR共同代表)に協力してもらいました。そのときからプロジェクトを一番良い状態に導くために、自分が設計するときもあれば、マネジメント側に回るときもあるというスタンスは一貫してますね」
東北大学で師事した建築計画者の小野田泰明氏とOpen Aの馬場氏は、領域は違うが、加藤さんにとっては仕組みから変えていくという点において、近い存在だという。馬場氏は企画や運営も担い、その仕組みや構造に対して実践者として、建築設計でない部分も含めて、結果的に街をつくっている。
「やっぱり建築を変えていくには、そこに踏み込まないと難しい時代だと思います。理想の風景をつくるために設計の前後をデザインすることはもちろん、ときには実践者として関わることも大切だと考えています」
Open Aで公共R不動産に関わりたいと思っていた加藤さんだったが、当時は公民連携が浸透してきた時勢の影響で、公共施設の設計案件が増えたことによってOpen A社内で「公共チーム」が組織され、そのリーダーを担うことになった。それ以降、チームでプロポーサルに参加し、公共施設の基本計画や設計・監理、運営支援まで行ってきた。
他方で、Open Aでの加藤さんの最初の仕事は、本を書く仕事だった。『CREATIVE LOCAL:エリアリノベーション海外編』(学芸出版社、2017年)という、人口減少する日本の地方都市の未来像を探すための海外事例を集めた本だった。その取材で行った、街全体をホテルとして再生するイタリアのアルベルゴ・ディフーゾという取り組みに感銘を受けた。
「日本って自分の街には何もないって言いがちですが、イタリアではいかに自分の街がすごいかという地域愛を語っているのです。その気持ちが日本に足りない気がして。Open Aで大きな公共施設に関わりながらも、もう少し当事者として活動を始めたいと思ってたんですよね。地元の新庄に関わる道筋もつくっておきたかったので、Open Aに入社して2年後の30歳のとき、2つの会社をつくったんです。その頃、月に1回のペースで地元に帰るようになって、そこで出会った人と空き家再生をはじめることになり、その辺りから人生が大きく転換していきました」
設計事務所勤務の過酷さを知っている身として、思わず「忙しい中でよくぞそんなことを思いましたね」と口をついて出てしまったが、「暮らしの延長だったらいけるかなと」という加藤さんにとっては自然な成り行きだったようだ。
何から始めていいか分からなかった加藤さんは、まず仲間づくりから始めた。空き家再生に興味がある人を集めた勉強会を開催したところ、30人ほど集まった。その第1回目の勉強会で、その後活用することになる空き家の大家と知り合う。次の月には片付け、その翌月に夏祭りの休憩所としてプレオープンした。その後、法人設立などを経て事業化し、そこから半年でDIYで改修し、1年後にオープンというスピード感で進んだ。
また、同じ時期に東京の高円寺でも活動をはじめた。小杉湯という銭湯に通っていたときに、オーナーから「隣にある解体前の風呂なしアパートを活用して欲しい」と相談を受け、10人のクリエイターと一緒に住みながら、銭湯の可能性を考えるというプロジェクトを開始。1年間の実験的な生活を経て、アパート解体後の建築を企画・設計し、運営まで担うことになった。その後、周辺の空き家再生を手がけるようになり、銭湯を起点にしたまちづくりを展開している。
「新庄での活動は、自分が帰りたいと思える場所をつくるためにはじめました。高円寺での活動も動機は似ていて、自分が好きな銭湯のある暮らしを街に広げたいという思いがありました。どちらも、自分の欲しい暮らしを実現しているだけなんです」
高校時代に考えていた居場所づくりと今の活動との違いについて聞くと、当時は行政主導の大きなプロジェクトをイメージしており、今のような個人の活動や小さな場づくりが街に影響を与えるということは分からなかったと振り返る。
「自分が欲しいと思う場をつくり、そこに共感してくれる人たちが集まることで新しい出会いが生まれ、集まった人たちがさらに新しい動きをつくる。このプロセスがまちづくりだと思います」
「小杉湯となり」を中心に半径500mに点在する暮らしの拠点。まち全体が「家」となる。
「銭湯ぐらし」に関わる人々は、世代や関わり方もそれぞれ異なる。
加藤さんの取り組みは多様な人を巻き込んでいるが、コミュニティをつくってるわけではないと言う。
「例えば銭湯にはコミュニティが根付いていますが、それは先に居心地の良い場所があって、少しずつ常連さんが集まってきた結果です。また銭湯の中を見ると、時間に応じてコミュニティが現れては消えるというような現象が起きています。夕方はご高齢の常連さんが多く、洗い場で井戸端会議が起きることがあります。夜が深まるにつれて若い人が増えてきますが、そこにも顔見知りの人同士で会釈を交わすなど、ちょっとした交流が生まれています。もちろん利用者の多くは、心身を労ったり、自分と向き合ったりと、個人の時間を過ごしているわけですが、会話をしなくても人の気配を感じながら過ごすことができる。私はそれをサイレントコミュニケーションと呼んでいるんですが、小杉湯となりも同じような考え方で場をつくっています。あとは、小杉湯となりは平日を会員制、休日を誰でも使える場所として運営しているのですが、これも常連さんと一見さんが混ざり合うような銭湯の構造を参考にしています」
コミュニケーションの選択肢をつくっていくことが大事であり、一人でも過ごしやすい場所、誰かと接点がある場所といったように、暮らしの延長にきっかけや選択肢を増やしたいという加藤さんの思いはあるが、その後に生まれている現象は、加藤さんがつくったものではない。
「コミュニティをつくるなんて恐れ多いですよ。ちなみに場をつくるときに気にしている点が2つあって、ひとつはオペレーションとデザインを分けないという点です。私自身が運営にも関わっているので、オープン後のことを考えてデザインしていますし、建築のデザインだけで解こうとせず、運営も一緒にデザインするように心掛けています。
もう一つが、自分の実体験を大切にすること。高円寺だったらまず、自分で実験的に風呂なしアパートで生活する。新庄だったら古民家をお試しで使ってみる。そういった実験を重ねて身体化していくことで、地域に求められているものや、まちづくりの方向性が見えてきます」
加藤さんは小杉湯となりから半径500メートルを家と捉えて、暮らしの拠点を展開している。暮らしを自宅で完結するのではなく、街に広げていく手法だが、これも実験的にプロジェクトをつみかさねた結果だという。
「去年から山形の大学に着任して、そこでも学生と一緒に空き家活用をスタートしました。最近は解体費も高騰しているので、一軒家を放置している方が多いのですが、最初のプロジェクトではシェアハウスとして活用しました。家賃3万円で4人住めば年間140万円くらいになるので、1年目の家賃をDIY費に充て、2年目の家賃を大家さんに返すモデルにしたんです。リノベーションされた物件と資金が残るので、放って置くよりは良いですよね。学生にとっても実践の場になるのでWin-Winの関係です。
その他にもいくつか活用を進めているのですが、空き家にあった古家具を別の物件に使ったり、入居者同士で交流が生まれたり、人や物のネットワークが生まれています。山形でも東京でも、その土地に合ったスケールや関係性があるので、実験を通して見出していきたいですね」
「今後も企画、設計、運営、研究、企画、設計をぐるぐる回して、常にアップデートしていきたいと思っています」
2023年、東北芸術工科大学の教職に着任した加藤さんは、高円寺と山形の2拠点生活をしている。それを可能にしているのが、高円寺の銭湯ぐらし、山形の最上のくらし舎というチーム体制である。東北大学で、どういうチームをつくって、どういうプロセスをデザインしていけば、良い空間ができるかというような計画論の研究もしていた加藤さんは、一貫して、チームやプロセスといったプロジェクトづくりを含めて、場をデザインしていると言えるだろう。
最後に事業として継続させていくためのコツとして、常連を増やすモデルについて、「広く浅く告知するよりも、この場所が本当に好きな人が10人でもいたら、その人が10人を紹介して、新しい常連を増えてというような連鎖をつくっていくほうが、実際には長期的な定着につながるんじゃないかと思います。まずは自分がこの場所に住んでいいと思って、それを周りの人に伝えて、というプロセスを大事にしています」と一緒にそのプロセスをつくっていくことが、暮らしのシェアスペースのような場所が増えていくことになると分析する。
考えてみれば、銭湯は身体ひとつで無防備な状態で人と空間を共有するという、とても不思議な空間である。物理的に体が温まるとリラックスするし、鎧を脱ぎ、生身の人間として、素に戻る時間があれば、隣人に優しくする気持ちが生まれる。今ある居場所だけでなく、新たな居場所を見つけることで、今より少しだけご機嫌な人が増えていく。そういった、人の気持ちの重なりが設計ではつくりだせない居場所の鍵のひとつになるのだろう。
プロセスというのは予測ができない。そこを一緒に進めていくには気負わず、まずやってみること、なのだ。空間の特性やコミュニケーションの仕方を押しつけない緩さが、世代を超えた居心地の良さとして受け入れられていっているのだと合点した。
*遊休化した公共空間の情報を全国から集め、それを買いたい、借りたい、使いたい市民や企業とマッチングするためのメディア
Cookie(クッキー)
当社のウェブサイトは、利便性、品質維持・向上を目的に、Cookie を使用しております。詳しくはクッキー使用についてをご覧ください。
Cookie の利用に同意頂ける場合は、「同意する」ボタンを押してください。同意頂けない場合は、ブラウザを閉じて閲覧を中止してください。