KENCHIKU世界/地域に根ざした建築家

蟻塚学|青森県弘前市| 文化の密度を支える建築(1/2)

文:柴田直美、写真・図版提供(明記以外):蟻塚学建築設計事務所

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弘前に戻る意思

弘前を拠点に活動する蟻塚学さんは、大学進学・設計事務所勤務のために広島で過ごした後、弘前にUターンした。大学生の頃から、将来的に弘前に戻ることを予定していたという。その理由は「外に出てみて、弘前の街のスケール感や文化度の密度の濃さの感じがいいなと思ったし、弘前の友人たちとの付き合いが面白かったということも気がつきました。そして、中心部がシャッター街になっていくのを見ていて、何か役に立ちたいなと思っていました。」

そもそも建築家になりたかったのは、小学生の頃、自宅のリフォームにきていた大工さんがとてつもなくかっこよく見えたことがきっかけ。間近に仕事ぶりを観察したり、大工さんが置いていった端材で家をつくって遊んだりしていたそうだ。大学進学とともに建築学科に進むことを決め、(小学校時代からカープファンだったので)広島へ進学。(ちなみに青森県で建築を学べる大学は八戸工業大学のみとのこと。)大学時代の夏休みに帰省した折には、自宅をリフォームした大工さんのところへアルバイトに行き、その時にガウディの作品集を見せてもらったそうで「ただ者じゃないなと思いました」と懐かしそうに回想する蟻塚さん。その後、その大工さんが建てた家を改装する機会もあり、蟻塚さんの建築家としてのキャリアの大切なバックボーンのひとつなのだろう。

弘前に戻って独立することを念頭に、若手の事務所に行けば、建築事務所がどのようにステップアップしていくかを学べると考えて、学生時代からオープンデスクなどで出入りしていた三分一博志さんの事務所に二人目のスタッフとして就職。三分一博志建築設計事務所にて6年ほど働いた後に、弘前に帰って独立した。

 

「津軽の実験住宅」の外壁はさまざまな種類の仕上げでパッチワークのようになっている。(写真:西川公朗)
「津軽の実験住宅」の外壁はさまざまな種類の仕上げでパッチワークのようになっている。
(写真:西川公朗)

 

 

戦火を免れた城下町

弘前は津軽藩が治めた城下町で、第二次世界大戦で空襲を受けなかったため、弘前城築城とともに行われた町割りや戦火を逃れた建築が残っている。蟻塚さんは「人や職人さんが優しい」といい、Uターンする人も増えているという。また、パリから帰ったばかりの前川國男が処女作の木村産業研究所(1932年)をはじめに、弘前市庁舎(1958年)、弘前市立病院(1971年)など生活と密着した公共建築を多く手がけ、弘前市斎場(1983年)まで50年にわたり継続的に弘前市に完成させた建築が8つあり、そのほとんどが現役の建物として使われている。2000年ごろから市民団体が保存活動をしており、街の観光資源として観光地図などにも載っている。2020年に開館した弘前れんが倉庫美術館は大正時代に酒造工場・倉庫としてつくられた煉瓦造りの建物を改修した美術館。シードル工場、吉野町煉瓦倉庫として使われていた倉庫は、当時の吉井酒造株式会社社長であった吉井千代子氏とアーティストの奈良美智氏の出会いによって、2002年に奈良氏の個展を開催することになる。「もしもし、奈良さんの展覧会はできませんか?」奈良美智展弘前 2002-2006 ドキュメント展 によると、かなりの数のボランティアが展覧会開催を支えたという。

展示からも大学進学まで弘前で過ごした奈良氏の回想に弘前の文化度の高さが垣間見えた。2019年12月にUターンで弘前に戻った樽澤武秀さんによると「弘前ねぷたまつりを開催してきている風土があるから、文化に対して寛容なのかもしれない」ということ。前川國男が手がけた弘前市民会館(1964年)も2014年にリニューアルされ、棟方志功による緞帳が50年前の姿に復元された。また、管理棟のステンドグラス「青の時間」は、弘前出身の画家、佐野ぬい氏によるもの。観光で少し立ち寄っただけでも文化財が大切にされている街だという印象が強く残り、その誇りも感じる。

 

 

3つの実験

弘前に戻った蟻塚さんは寒冷地での建築に向き合い始め、素材・空間・熱についての実験を進めた。弘前では、1mの積雪や結露に対処する建築であることが必須になり、広島とは違った形で気候が特徴的な形になる。暑さ対策ではなく、寒いところの建築について考える必要があった。

まず、素材の実験をした「津軽の実験住宅」(2009年〜)は蟻塚さんの事務所であり、お母様が暮らす家でもある。廊下、外壁、室内の壁、塀などにさまざまな建材や仕上げがつぎはぎになっており、弘前の気候や時間の経過による変化を実験結果として、クライアントと共有するなどしているという。続いて自宅では空間の実験。「津軽の実験住宅」が素材のモデルルームだとすると、自宅はクロスの貼り方や床材が空間でどう見えるか、という空間のサンプル。つい最近、完成した新事務所は友人から譲り受けた家で、「津軽の実験住宅」から歩いてすぐにあり、工事車両が入ることも難しいような旗竿地に建つ。ここでは寒冷地には欠かせない熱(断熱)の実験をすることになった。どれくらい断熱すればエアコンだけで十分かなどの仕様のシミュレーションをしている。改修のために一部解体したところ、建材の一部が再利用されていたことがわかり、そのまま活かしている。外壁は工務店にある外壁材を使ってもらうように頼んだだけで、デザインの指示などはしていない。まさに実験。

 

左から、津軽の実験住宅、新事務所、自宅(地図画像:Google)
左から、津軽の実験住宅、新事務所、自宅(地図画像:Google)

改修工事後の新事務所内観。元の建物に使われていた梁がすでに再生材だったことが判明したが、今回の改修でも使用
改修工事後の新事務所内観。元の建物に使われていた梁がすでに再生材だったことが判明したが、今回の改修でも使用

 

 

街に与えるインパクト

こつこつと建築を作ること、14年。あっという間にあちこちに蟻塚さんが手がけた建築や空間が増えている。「『青森の街のスケールで100件を設計することの人口に対してのインパクトが広島とは違うので』と言って広島から青森に帰りました。建物をつくれば街が良くなると思っていたのですが、まちづくりと建築設計が断絶されていて、これだけじゃダメだなと思うこともあるが、それでもこの14年でかなり狭い範囲での30~40件を手がけることができています。建築設計に専念していても街がよくなるかも、この街の密度であれば、役立てるかなと思うのです。あと10年くらいで100件くらいになったらと。」

 

弘前市中心にある蟻塚さんが手がけた建築をプロットした地図(地図画像:Google)
弘前市中心にある蟻塚さんが手がけた建築をプロットした地図(地図画像:Google)

 

 

HIROSAKI ORANDOというカフェ・ギャラリー・コワーキングスペースなどの複合施設の2階には蟻塚さんも立ち上げ人のひとりであり、設計したゲストハウス『ORANDOの二階』がある。その事業において建築設計はごく一部でしかないが、「三年後とかに何か(建築に関わる仕事)につながったらいいかなあ、と思いながらやっています」という蟻塚さんが見ている未来は事業を通した人との繋がりであり、設計した建築によって活性化されている町の未来像と重なっているのだろうと思った。
このところ、蟻塚さんの事務所に工業高校を卒業したばかりの近所の子が働きに来ているという。2006年に奈良氏の展示のボランティアスタッフだった佐々木怜央さん(当時、高校生)が現在はアーティストとなっているように、バトンが連綿と受け継がれていくことが夢物語ではないと思える弘前は確かに帰りたくなる場所だろうと思った。

 
 

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