ビッグデータを用いた歩行者分析の分野で世界的な注目を浴び、「データを用いたまちづくり」の第一人者として活躍する吉村有司氏。大学卒業後は日本を飛び出し、バルセロナの公的機関の職員として様々な都市計画に携わってきた。近年はバルセロナとボストンを行き来しながら、研究やプロジェクトに奔走している。そんな吉村氏へのインタビューを、3回に分けてご紹介。第2回の中編では、吉村氏がこれまで触れてきたヨーロッパの建築と当時の状況・背景について解説していく。
当時のバルセロナの建築的な状況はどうだったのでしょうか?
エンリック・ミラージェスによるバラニャ市民会館外観
エンリック・ミラージェスによるバラニャ市民会館内観
吉村
僕は元々建築のデザインを専門としていましたので、バルセロナに来た当初は、それこそエンリック・ミラージェス(Enric Miralles)の建築なんかを見て回る毎日を送っていました。正直、彼の建築は日本の雑誌で見ている時はその良さがさっぱり分からなかったのですが、イグアラーダの墓地などを実際に訪れてみると、そこには素晴らしい建築空間が展開していることに気が付きました(※1)(※2)。
※1 地中海ブログ:イグアラーダ(Igualada)にあるエンリック・ミラージェスの建築:イグアラーダの墓地
※2 地中海ブログ:エンリック・ミラージェス (Enric Miralles) の建築:
バラニャ市民会館 (Centro Civico de Hostalets de Balenya):内部空間編
ラペーニャ & エリアス・トーレスによるソーラーパネル
吉村
また、ラペーニャ&エリアス・トーレス(Lapena&Torres)の非常にダイナミックな建築造形、特にトレドのエスカレータのデザインには度肝を抜かれましたし、マドリードにあるエドゥアルド・トロハ(Eduardo Torroja)のサルスエラ競馬場(Hipodromo de la Zarzuela)を成り立たせているアクロバティックな構造や、それが可能にする建築表現からは多くのことを学ばせてもらいました(※3)。
※3 地中海ブログ:エドゥアルド・トロハの傑作、サルスエラ競馬場 (Hipodromo de la Zarzuela)
その2:軽い建築の究極形の1つがここにある
サルスエラ競馬場
吉村
その一方で、それこそ雑誌で見ていれば十分な建築や、写真映りの方がずっと綺麗な建築などにも沢山出会いました。特にスペインは出版熱が非常に熱い地域として知られていて、建築出版界の老舗、グスタボ・ジリ社(Editorial Gustavo Gili)をはじめ、大判の写真を起用し大成功を収めたEl Croquis、そこに殴り込みを掛けたACTARなど、丁度僕がバルセロナに行った頃というのは、建築というよりも寧ろ、出版熱の方が強かった印象があります。だからこそ、僕は自分で訪れた建築以外のものを語ることを止めることにしました。周りのコンテクストや実物を見ずに雑誌の印象だけで建築を判断することは恐ろしく危険な行為であると痛感したのです。
その後、ポルトガルに行かれたと聞きました。
ポウザーダ外観
ポウザーダ内観
吉村
ヨーロッパの建築を見て回っている内に不意に出逢ったのがアルヴァロ・シザ(Álvaro Siza)の建築でした。シザのことはそれこそ『El Croquis』や『建築文化』の特集号などで知ってはいたのですが、正直それほど心惹かれる存在ではありませんでした。最初にオポルトを訪れたのも、シザの建築を見る為ではなく、エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ(Eduardo Souto de Moura)が改修した修道院を見に行くのが目的だったのです(※4)。彼の修道院の改修は本当に素晴らしかったのですが、他の作品にはあまり心惹かれませんでした。オポルト滞在中は彼の建築を見て回ることに決めていたので、予期せず時間が余ってしまい、仕方がなく見に行ったのが街の中心にあるシザの美術館だったのです(※5)。
※4 地中海ブログ:エドゥアルド・ソウト・デ・モウラの建築:ポウザーダ・サンタ・マリア・ド・ボウロ (Pousada de Santa Maria
do Bouro) その2:必要なくなった建築を壊すのではなく、修復してもう一度蘇らせるという選択肢
※5 地中海ブログ:ガリシア旅行その8:アルヴァロ・シザの建築:セラルヴェス現代美術館 (Museu de Arte Contemporanes,
Fundacao de Serralves):人間の想像力/創造力とは
セラルヴェス現代美術館アプローチ
吉村
美術館のアプローチ空間に身を置いた時のことを僕は今でも昨日のことのように覚えています。まっすぐに伸びた庇の向こう側に反射した光が、まるで我々を手招きするかのように「おいで、おいで」と言っているかのようだったのです。
セラルヴェス現代美術館アプローチ
吉村
それはいままで見たこともないような空間で、「人間にこんな空間を想像・創造することが可能なのか?」と、そう思わされるほど僕の心を打ちました(※6)。翌日にはポルト大学建築学部棟やレサのスイミングプールを見に行きました。どの作品も本当に素晴らしく、それらの作品を見ている内に、「このアルヴァロ・シザという人の建築をどうしても理解したい!」と思う様になり、その3日後には一年間オポルトに住み込むことに決めてしまいました(笑)。
※6 地中海ブログ:アルヴァロ・シザ (Alvaro Siza) のインタビュー記事:シザ建築の特徴は一体何処からきたのか?
レサのスイミングプール
吉村
なにも失うものが無い若い時期だからこそ出来た決断だったと思います。ヨーロッパに来たばかりで時間だけは無限にあったし、なにより当時はユーロ通貨が導入されたばかりだったので物価が驚くほど安かったのです。ポルトガルに滞在していたこの一年間は僕の人生の中でも本当に充実した毎日だったと思います。毎日の様にシザの建築を見に出かけ、週末になるとポルトガルの建築を見て回る小旅行をしていました。訪れた村々でシザのことを聞いてみたりすると、「あー、シザねー。この街には何もないけど、あの教会だけはこの街の誇りなんだよ」と嬉しそうに答えてくれる人々の姿が非常に印象的でした。(※7)。
※7 地中海ブログ:アルヴァロ・シザの建築:マルコ・デ・カナヴェーゼス教会の知られざる地下空間:真っ白な空間と真っ黒な空間
マルコ・デ・カナヴェーゼス教会内観
吉村
これらの体験が「シザというのはこの地では建築家であるとともに、地元のヒーローなんだ」ということを僕に教えてくれました。ヒーローである建築家が創ってくれた施設だから大事に扱う、オラが村の建築家が作ってくれたものだから少しぐらい古くなっても改修して残す方向で考える。そういう社会的な空気がボトムアップ的に形成されてくるんだな、、、ということが僕なりに分かってきました。建築とは、そこに住む人々の希望や願望の具現化であり、コミュニティに所属するみんなが心の中に思っていながらもなかなか形に出来なかった願望を一撃の下に形にする行為なんだということを日常生活から学ぶことが出来たのです。
スペインやポルトガルには、その地方に根ざしながらもグローバルに発信している、もしくは発信しようとしている建築家が比較的多くいると思います。彼らの活動というのは地元の社会文化的な背景や、その社会が組み込まれているネットワークの中から醸成されてきたものなので、その地に赴き、実際に住んでみたりしなければその真意はなかなか見えてきません。ましてや建築雑誌や写真だけでその建築家を判断していると、往々にして彼らの真意を見誤ることになると思います。その良い例がRCRアーキテクツだと僕は思います。
ペドラ・トスカ・パーク (Photo:渡部悠)
吉村
スペインの地理に馴染みの無い方々にとっては分かりにくいかとは思うのですが、RCRアーキテクツがホームにしているのはオロット(Olot)というバルセロナから車で内陸に2時間ほど行った所にある火山帯自然公園に囲まれている人口3万人程の小さな街です。ジローナ県の内陸部に位置している為、カタルーニャという同じ文化圏に属していながらも、大都市バルセロナとは社会的なコンテクストが全く異なります。RCRアーキテクツの3人は大学に通う為に80年代初頭にサンクガット市(バルセロナ市近郊)に上京していますが、卒業と同時に故郷であるオロットに帰るという選択をしました。この決断こそが、のちの彼らの作風を決定付け、そして彼らの人生を大きく変える最も重要な選択だったと僕は思っています。
彼らが独立した80年代後半というのは、バルセロナがオリンピックに向けて大規模プロジェクトを次々と承認していく一方で、若手にもチャンスを与えようと数々のコンペが開催されていた時期でした(※8)。エンリック・ミラージェスやラペーニャ&エリアス・トーレスなどはその恩恵を受けながら世の中に出て来ていますし、他の建築事務所などもオリンピック好景気に沸いていた時代でした。つまりは建築界が大不況に陥っている現在とは異なり、就職しようと思えば、有名無名に関わらず、どこでも選ぶことが出来た時代だったのです。それにも関わらず、RCRアーキテクツの3人は大都市バルセロナに残って有名建築事務所で働くという一般的な選択肢ではなく、地元に帰る決断をし、そこでコツコツと自分達の建築を創り出すという道を選んだのです。その選択が「ごく自然なことだった」と彼らは繰り返しメディアで述べています。つまりは家族や友人がいる場所—生まれ育った風景の中—へ帰っていってそこで仕事をすることがごく普通のことだということです。また、彼らは最近のインタビューの中でこんなことを言っています:「私たちは、グローバルな事柄にもとても惹かれますが、建築は、それが建つその固有の場所に深く根を下ろして欲しいと考えているのです。よく言うのは、根と、翼の両方をもつとよいということです。」(A+U, 2015,11,no.542, p39)
※8 地中海ブログ:何故バルセロナオリンピックは成功したのか?:まとめ
ラス・コルス・レストラン外観 (Photo:渡部悠)
吉村
RCRアーキテクツの3人が稀有だったのは、地元にしっかりと根を張りながら作品を創り上げていく一方で、それらをグローバルに発信していくことを怠らなかった点だと僕は思います。そしてそれは常に「根」が先にあり、その結果、「翼」が後から付いてくるという順序を決して逆にしなかった点でもあると思うんですね。つまりは「スペインの地方」という特殊性を世界的コンテクストの中で唯一性に変えながらも、それを武器にグローバルに発信していくという道を選んだ訳です。彼らの偉業の一つは、グローバルに活躍する「スーパースター建築家」というモデルとは異なる新しい可能性を示してくれたことだと、僕は思っています。
その後、バルセロナの公的機関で働かれています。
吉村
僕が初めてバルセロナで得た職はバルセロナ現代文化センター(CCCB)という公的機関でした。展覧会やカンファレンスなど様々な企画を立ち上げ、バルセロナの人々の文化の底上げをしながらも市民参加を促す機関です。当時の所長であったジョセフ・ラモネーダ(Josep Ramoneda)はAny会議でイグナシと共にホストを勤めた文化人でもあり、戦略的にバルセロナを公共空間政策の中心に位置付けようと「欧州公共空間賞(European Prize for Urban Public Space)」なるものを立ち上げ、僕はその手伝いをしていました。その後、カタラン人で元ユネスコ総長のフェデリコ・マヨール・サラゴサ(Federico Mayor Zaragoza)が創設したサステナビリティに特化したUNESCO Chairに席を置いていた時、バルセロナ都市生態学庁による公共空間戦略を知りました。僕の目をひときわ惹いたのは、都市のあらゆるところからデータを集めてきて、それらをGIS上で処理することによって都市戦略に説得力を持たせている点でした。それこそビックデータという言葉が巷を賑わす20年も前から、エビデンスベースの「データを用いたまちづくり」を実践していたのです。
インタビュー(2017年3月): KENCHIKU編集部
吉村有司
吉村有司(Yoshimura, Yuji)
1977年愛知県生まれ。建築家。2000年中部大学工学部建築学科卒業。2001年よりバルセロナ在住。バルセロナ現代文化センター、UNESCO Chair (UPC)、バルセロナ都市生態学庁、カタルーニャ先進交通センターなどを経て、現在、laboratory urban DECODE代表、マサチューセッツ工科大学建築・都市計画学部研究員、ルーヴル美術館リサーチ・パートナー。主なプロジェクトに、バルセロナ市グラシア地区歩行者計画、バルセロナ市バス路線変更計画など多数。近年は、クレジットカードの行動履歴を使った歩行者回遊分析手法の開発や、Bluetoothセンサーを用いたルーヴル美術館来館者調査など、ビッグデータを用いた歩行者分析の分野で世界的な注目を浴びる。「地中海ブログ」で、ヨーロッパの社会や文化について発信している。
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